日本伝統の道具「枡」の歴史を探ってみよう

枡にはおよそ1300年の歴史があると言われています。現在は酒器や節分の豆まきの容器として、私たちの身近で活躍している「枡」ですが、元々は「量る器」、つまり計量器でした。そんな量る機能を備えたシンプルな箱型の道具「枡」の歴史を探ってみましょう。

日本人にとっての枡の意味

日本伝統の道具「枡」の歴史を探ってみよう

枡は本来体積を計る道具です。古くから日本の政治、農業、商業そして人々の生活基準として活躍してきました。
人間が農耕を始めて以来、穀物や酒や油だけではなく、芋や果実や魚などにいたるまで、主に人間の食料を計る道具として用いられてきました。

それは農民にとって穀物の種を蒔くときに始まり、収穫量を計り、年貢を計算し、家族の翌年までの必要分や種子分を用意するなどのため、一年を通じて欠くことのできないものでした。
また氏族、部族の長や神官や政治を行う者は、農耕を指導し、耕地を守る代償として収穫量や耕地面積に比例する作物を納めさせ、これを自分たちの生活や政治を維持するため、また兵士や道具を作る職人に食料を分配し、飢饉に備えて備蓄するなどのため、枡の基準を統一し、また自分たちもこれを守らなければならなかったのです。

天下統一と枡の基準の日本全国統一

日本で主流となった木製の方形(四角)枡は八世紀(奈良時代)のものが出土しています。今からおよそ1300年位前のものですが当時から永年の間、枡の容量は絶対的なものではありませんでした。
中世の日本では、一升枡は現在の十合入りではなく、地方により七合、八合とまちまちの状態でした。古来日本では全国的に一升の単位は現在の一升(1800ml)よりも少量で六合から八合位の容量でした。
しかし歴史の流れの中、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三武将により天下統一がなされた頃、枡の基準・容量も同時に統一されていきました。織田信長が楽市楽座を奨励した頃から、それまで乱れていた枡の容量が全国統一への道を歩み始めたのです。商業発展の為には量の基準が不可欠でした。
その後豊臣秀吉によってなされた太閤検地の際、石高算出のため初めて全国一律に、一升を十号と統一しました。京都で発令したので京枡と名付けられました。なお徳川時代に入り一時期、京枡と江戸枡の併用となりましたが、寛文九年(1669年)京枡一本となったのです。
大名の力は「百万石」のように米の収穫高で表すようになり、枡ではかる単位は富や景気を表すようになりました。

現在の日本人の生活では日本伝統の道具「枡」の歴史を探ってみよう

はかる道具として使われることがほぼなくなった現在も、枡の単位は、「一合炊き」「一升瓶」のように、私たちの暮らしに息づいています。枡そのものも、酒器などとして使われ健在しています。また、古来神聖なものとして扱われてきた象徴として社寺の節分祭などの行事でも使用されております。
「MASPACIO」は、日本の伝統の道具である「枡」の新たな価値を発信し、空間に驚きと癒しを与える存在でありたいと思っています。

枡の作りについてはコチラ!

【参考文献】
・「Newえるふ Vol.21 Autumn&Winter 2019」
・小泉袈裟勝「ものと人間の文化史 36・枡(ます)」
・公式WEBサイト 枡工房枡屋 枡について「https://www.masuza.co.jp/hpgen/HPB/entries/4.html

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